色のない緑色の考えは曖昧に記述する

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本・ゲーム・映画等感想レビュー及び雑記

小説紹介・感想「息吹」テッド・チャン

テッド・チャン「息吹」

2019年に刊行された中でも抜きん出た傑作どころか、10年代を通して見てもテッド・チャンの「息吹」は類稀なる完成度を誇る。
多くのSFファンが絶賛する出来だろう。
有名所だけでも「ヒューゴー賞」「ネビュラ賞」「シオドア・スタージョン賞」「星雲賞」と多くの賞を受賞した傑作揃いだ。
この息吹にはどの作品にもテーマがある。「自由意志」「子供」などいくつかのテーマだ。これらのテーマは現代で社会問題になっているようなものから哲学的なものまであるがどれも考える価値のあるテーマでした。
一篇一篇読みすすめる毎に長編の作品を一本読み込んだような重厚感と余韻が残り様々な出来事に考えを馳せさせられるだろう。
あのオバマですら絶賛するのも納得の出来というものだ。この素晴らしい小説を読む価値は大いにある。この読書経験を通して得る経験は貴方人生に息吹を与え、様々な出来事を考えさせてくれるだろう。
知性の極限はそこにある。是非とも自信の目で確認してもらいたい。

 

「商人と錬金術師と門」

時間モノ、。最初からテッド・チャンに全力で殴打された。全ては因果で皮肉。現在は常に未来に向かって移動している。例え未来にタイムマシンを使って時間移動をし、未来の自分に何かをしてもそれは未来の自分に向かって還ってくるだけだった。たぶん皆々様も聞いたことくらいはあるだろう。ドラえもんのび太に押し付けられた宿題を片付けるために未来の自分を連れてくるというアレだ。その「連れてきた自分」の時間に今の自分が到達した際に今度は過去から自分がやってきて宿題を手伝わされるというアレ。アレをより魅力的に知性的に描いたのがこの作品だった。どうやら知性の極限を追求したという帯の謳い文句は冗談でもなんでもないらしい。

「息吹」

本書表題作。階段でDioに遭遇したポルナレフみたいな気分になった。
最初読み始めるとアンドロイドか何かの話かなと思うのだけどどうやらそうじゃないらしい。自らが自らを解剖できるほど高度な知性に構造的な肉体を持っている生物らしい。突然、熱力学第二法則やら火星年代記みたいなことを言い出したりと数ページの間に話が二転三転する。
正直目が白黒するし何が何だかわからない。いや、書いてあることは理解るのにどんな思考をしていたらこんな作品が書けるのか理解ができない。テッド・チャンは一片の疑いも無い天才だ。
最後のオチまで天才的でまさに表題作に相応しいものだった。
人間はいつか死ぬ。万物はいつか滅びる。それでも彼とテッド・チャンは我々の中に確実に息吹を与えた。
自身が今ここに存在するという奇跡、それそのこと自体に思いを馳せ歓喜を記したい。そして私の息吹が貴方の息吹にならんことを願う。

「予期される未来」

商人と錬金術師と門に続き時間モノ。
ただしこちらの作品はタイムリープだとか時間改変だとかそういうものではない。出てくるのは非常に単純で「ボタンを押そうとするとランプが点灯するだけ」という装置。この装置がかなりの問題を引き起こす。大変な議論を引き起こす。
センサーだとかAIだとかそういう要素でランプが付くわけではない。ボタンを押すという未来を予測(この場合は観測)してランプが付くのだ。なのでこの装置のボタンを押すことは決してできない。そのことをきっかけに人間の自由意志へと言及されていく。
装置の観測で未来が既に決定されているとしたらそこに自由意志の介在する余地はあるのだろうか?もしも人間の自由意志に関係なく運命が決定づけられているとしたら、我々は本当に生きていると言えるのだろうか?すべての事柄が運命付らているとしたら……

「ソフトフェア・オブジェクトのライフサイクル」

VRのような没入するタイプのゲームやVRchatのようなツールが一般的に普及してる程度の近未来。人語を解する動物型テクスチャの育成型人工知性AIを開発する会社とその動物達に調教・開発そして継続的にあたかも子供のように教育する主人公達の話。
どうやら純粋にAIやプログラミング技術も現代より遥かに進化しているようだ、それがソフトウェアであれハードウェアであれ。
ベースは同じだけど育成環境で異なった学習をする動物型人工知能を不特定多数の客層に育てさせたらどうなるかみたいな思考実験みたいに思えたがそれも違うようだ。
子供のAIの育成の話だ。どうやったら架空のワールドでAIを育成して正しく育てられるのか、どうすればポイントへの復帰以外で起きた問題へと対処できるのか、問題はAIで提起されているけれど実際の子供にも適用できるように感じた。どうやって育てればいいのか、ネグレクトされ教科書だけ与えられた子供はどうやって育つのか。そこに答えはきっと無いんだろう。少なくとも私には見つけられなかった。環境的問題、文化的問題、理想像、社会に要求される形、自身が要求する形、それらが複雑に入り組んでいるからだ。
またそこから独自の生態系や文化やを生み出すような試みもあった。実際に”それ”を走らせてみたらどうなるのかへの興味は尽きない。
育てられたAIはプログラムなのか、子供なのか、ペットなのか、それとも欲望の捌け口でしかないのか、何かの欲求を満たすための代用品でしか無いのか。
彼らが求めるものは何だ。彼らはどうなるのが理想なのか。私にはわからない。
彼らの未来に豊かな発展と法人格があらんことを。

「デイシー式全自動式ナニー」

前篇は人間がAIを子供のように扱う話だった。こちらは対になるように出産で母親を失った父親が子供の世話を全てを行う機械式全自動ナニー(ナニーとは乳母のようなもので朝起きてから眠るまで子供の面倒を見る職業)とガヴァネス(子供の教育係)の補助エンジンを作成する話。
父親は早々から子に研究は引き継がれる。その子供は養子を最初から全自動ナニーに育てさせた。2歳を過ぎた頃になるとナニーから卒業する時期だと父親は判断し養護施設に育てさせた、皮肉にもそこまでうまく成長していた子供の成長は途端に遅滞していく。人間から世話をされるということを理解できなかったのだ。
人の補助をするために作られた道具のはずが道具のための人にすり替わってしまっていた。どこまでも皮肉な物語だった。胸が痛む物語でどうしても私には好きになれなかった。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」

ニコルは文字を読んで認識することは出来るが書くのが苦手だ。
何故ならソフトウェアガジェットの発達によって思い浮かべた「言葉」を目の動きとジェスチャーで記すことが出来るようになっていたからだ。言葉を書くという行動そのものが廃れつつある未来と言って差し障りないだろう。
記憶についても同じようなことが言えた。Remenという検索ツールの登場で記憶の外部委託化が進み細かいことを覚える必要性はなくなったのだ。Remenは検索ワードの入力を終える前に検索を完了している。「鍵をどこにやったっけ」と言えば視界の左下に行動記録の動画を再生しすぐに鍵を見つけることができる。どこかで一度会っただけの人間に「あの時あそこで出会った」と言われればその瞬間の映像を再生してくれる。
便利なツールだということは間違いない。多くの人の役に立ち生活を便利にするだろう。
もう一つツールがある。ライフログだ。自身の行動記録をツールを用いて記録し続けることで5W1Hを常にはっきりとさせることが出来る。それは素晴らしい記憶を映像として記録することに主に利用されたがそれ以外の用途もあった。喧嘩が起きた原因、事件が起きた原因、事故が起きた原因、ライフログに記録さえされていれば全て解決できた。
ただしそこに全く問題が無かったわけではない。何故ならライフログを常に記録し続けていると記録が膨大になりすぎるからだ。5W1Hには前提として必ず「いつ」「どこで」がはっきりしていないと先に進めない。そこでRemenが役に立つ。何故なら調べようとするだけで結果を出力してくれるからだ。
Remenは記録したライフログの、夫婦での、友達での、恋人での、些細な喧嘩や行き違い、言葉の綾すら正しい記録を再生してくれた。お互いが飲み込んでおけば済んだ問題ですら再生し問題を正した。
人間の感情は移ろいやすい。あの時はそうだと思っても今そうだと思わないことなんて山程あるはずだ。忘れたい記憶、辛い記憶や痛い記憶、屈辱の記憶だってある。Remenは不意にそれを想起させた時に再生する可能性を孕んでいた。ひとつの出来事が決定的な破滅へと繋がる可能性も含んでいたのだ。逆に過去の出来事を美化することだってある。子供の頃の出来事、プロポーズや結婚式などのイベント、成功の体験。それらすべてをRemenは許さない、
Remenは忘れることを許さない。Remenはやり直しを許さない。Remenは人を真実の奴隷にした。
真実は人を自由にするかもしれない。だがしかしすべてから解放された真の自由は真の不自由と同意義に感じた。
だが真実の奴隷になるというのも悪いことだけではないかもしれない。過去に犯した過ちと確実に向き合うことができるからだ。
結局の所現代でも未来でも道具は使い方次第だ。どんな道具だって危険性はある。使い方次第では人を傷つける。便利なものは便利なものとして使い、人の心が反して不便にならなければそれでいいのだろう。

「大いなる沈黙」

ओम् 人類はどうやらアレシボという装置を使って地球外知的生命体との接触の手段を確立したらしい。ただし返事はない。
私にむずかしいことはわからない。でもとても人間らしい物語だと思った。
関係ないけどアバチュのOm Mani Padome Hmってマントラだったのね。

「オムファロス」

世界5分前仮説を題材にした短編。
宗教とか哲学とかいろんな学問に手をつけてないといまいち理解できないかもしれない。
人は古来、神が土を捏ねその御姿を真似創造されたと考えられいた。しかし時代や学問の進化と共にそれは否定され類人猿から進化したというダーウィンの進化論、その祖先はオーストラリアにありミトコンドリア・イブと呼ばれるアフリカ単一起源説へと到達した。
これらは人間の生体、生殖形態や他の生物の生殖形態、DNAなどから裏付けされていて人体の一部である「臍」もその証だ。
しかし、しかし「臍のないミイラ」が発掘されたとしたらどうだろう。学者はそれを突然変異と考えるだろうか?主を信じるものならきっと神の奇跡による御力と考えるだろう。
この話ではどうやらアダムは土から作られイヴはその肋骨から作られた話らしい。
ある日天動説が地動説という科学的根拠により否定されたように、当たり前だと思っていた常識が破壊されたらどのような気持ちになるのだろうか。全ての人間が主を信じ、主も人間に加護を与えていると考えられている世界で主が実は人間に何の興味もなく見向きもしていなかったと理解ってしまったら、それはどんな気持ちになるのだろうか。
私には絶対的な挫折の経験はあるがそこまで既存の価値観を破壊されるような発見とは生憎出会ったことがない。主の存在は信じているが主は過酷な生存環境の中で人類が生み出した道具の一つだということも知っている。それでも主の存在は信じている。それは信仰は人の心に宿るものだと考えているからだ。
きっと、それは、言葉にすらならない衝撃なのだろう。どんな顔になるのだろう。どのような絶望なのだろう。
だけれども。だけれども私は、人が今こうして生きている事自体が主の奇跡に等しいと感じている。

「不安は自由のめまい」

プリズムという行動によって生じる分岐を、これから起きる出来事、もしくは起きた出来事の並行時間線軸を、「if」を観測する機械が世間的にメジャーになった世界の話。ただしそれは過去に起動しているプリズムがあり未来に起動しているプリズムがある場合に限っている。
もしも今あの行動をしたらどうなるか、もしもプロポーズをしたら成功するか、どんな質問をしてもプリズムは答えてくれる。もっと正確に言えばその未来の時間軸の自分がその結果を共有してくれる。
ある意味では素晴らしい発明だと思う。間違った行動や失敗のリスクを回避できるからだ。先んじて何か問題が起きることを知っていればそれを回避することは容易い。しかし、それは未来の自分と完全に同じ行動を行った場合に起きる出来事で違う行動を行った結果より悪い状況になる可能性があることも意味している。それなら最初からプリズムなんて使用しないほうがよかっただろう。
逆に重要な決断を下さないといけない場合にプリズムを使用していい結果になったとする。でもそれは本当に自分の自由意思で決めたことなのだろうか?攻略本を読んでその通りに進めるだけの味気のない人生になりはしないだろうか?一度プリズムを重要な決断に使用した場合、次の決断もプリズムに頼ればいいとなりはしないだろうか?
それは、依存症と、言うのではないだろうか?

人間は一度与えられた物を没収されるとそれがもともとなかった時と違い大きく不満を感じるという。
仮に平行時間軸の自分とやり取りをして向こうの自分が成功を収め莫大な財産を築いていたとする。自分はそれを与えられる可能性があったのにそれを取り逃したことに気づく。向こうの自分にどうやってそれを獲得したかを問う。その行動を実行に移したとしても既に状況が違うので成功するかもしれないし失敗するかもしれない。それが他人は関与することが多いだろうから余計に失敗する確率は大きくなるだろう。向こうの自分にはあって何故自分には無いのか、当然そう考え嫉妬するだろう。当然だ、だってそれは自分が獲得するべきものだったかもしれないものだからだ。
この出来事の問題はどこにあるのだろうか?いつだって行動には「もしも」が存在する。何を食べるか、どの服を着るか、どっちの手で扉を開けるか、その程度のことから全てのことに関して。誤差の少ない「もしも」から大きな「もしも」までいくつも大きな「もしも」が存在するがそれはあくまで「もしも」だ。自分にとっては起こり得たかもしれない可能性だけれども実際には起こらなかった事柄だ。悪い「もしも」を観測したら悪い結果を前提に行動してしまうだろう。良い「もしも」を観測したらそれを期待し行動するだろう。どちらの結果にしてもその「もしも」に引きずられる結果になる、それは間違いない。
人間はいつだって正しい行動を取れるとは限らない。間違いだって起こすだろう。少なくとも起きた出来事は良い事でも悪いこと受け入れて生きていくしか無いと私は思っている。それを「もしも」のせいにして生きるのを私は健全とはとても思えない。
つまり、プリズムで未来を観測する行為自体が不健全な要素を含んでいるのだと私は思う。別に未来を固定するものではない。ただ起きうる可能性と対話するだけだ。だけどそれで悪い結果に繋がる可能性が大きいならそれはまだ文明か、人間か、社会にとって早すぎるものなんだと思う。
利点があるのももちろん事実だと思う。先に書いた通りトラブルを回避出来るかもしれない。飛行機が墜落するのを未然に防げるかもしれない。
それでも、それも含めて「もしも」なんだ。行動の結果「もしも」が増えるだけだ。入れ子構造のもしもの中に新たなもしもを詰め込むだけにすぎないと思う。
結局、自分の選択の結果は自分に返ってくるのだ。なら、選択をするのは自分であるべきだと、そう、思う。

 

最後に

以上で全篇となる。どの物語も非常に現代的な問題を孕んでいて考えさせられるだろう。私は一篇読むごとに記事の下書きを進めたり色々考えたりしていたら結局一月ほど読むのに費やして結局年が明けてしまった。
「不安は自由のめまい」からは伴名練の「なめらかな世界と、その敵」表題作と似たようなものを感じた。同じ時期に刊行された傑作の中で同じようなテーマの至極の作品が読み比べられるというのはとても素晴らしいことだと思う。

間違いなく2019年に刊行された小説の中でも5本の指に入る作品なので是非とも手にとってもらいたい。

 

息吹

息吹